ヨハニス・デ・レーケ (オランダ人技師) |
![]() ![]() 画像元:Wikipedia - ヨハニス・デ・レーケ |
ヨハニス・デ・レーケ 羽島市は東は木曽川、西は長良川に挟まれた市です。 そこの低い巨大な川と、その支流が網目状にあったため、頻繁に水害があった。 ヨハニス・デ・レーケ(日本語で表記するとヨハネス・デ・レイケされる場合もある) 1842年-1913年 オランダ人 日本の砂防や治山の工事を体系づけ、「砂防の父」とも呼ばれていた。 木曽川と長良川付近の地域は古くから洪水による水害が多く、 分流や合流を繰り返していた。 岐阜県と愛知県のう堤防取締役らが三川分流を明治新政府に上申したが 聞き入れられなかった。 その後、岐阜・愛知・三重の三県の陳情により、明治政府によって招かれた 10人のオランダ人技師の中で、 ヨハニス・デ・レーケが派遣された(1877年)。 レーケは、三川周辺の地形を調査(1878年)し、1887年に着工された。 しかし、工事中の大雨や台風による自然災害の被害によって堤防が決壊するなど難航し、 完成は1912年となった。 なお、分流工事後は水害による死者が10年で約300人から10人へ、 全壊家屋や流失家屋は約15000軒から約300軒となり、 三川分流による効果が大きいことが分かる。 また、ヨハニス・デ・レーケが指導・建設した堤防や砂防は、 現在の日本でも各所に存在している。 ※木曽三川分流工事 1887年から1912年までに行われた木曽三川完全分流工事。 参考資料:Wikipedia - ヨハニス・デ・レーケ 背景画像:イラストわんパグ |
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