花の色は うつりにけりな いたづらに わが身よにふる ながめせしまに(はなのいろは うつりにけりな いたずらに わがみよにふる ながめせしまに)

*作者 小野小町(おののこまち)



( 現代語訳 )


桜の花の色は、むなしく衰え色あせてしまった、春の長雨が降っている間に。
ちょうど私の美貌が衰えたように、恋や世間のもろもろのことに思い悩んでいるうちに。  



( 言葉 )


【花の色】

「花」とだけ書かれている場合、古典では「桜」を意味します。
「桜の花の色」という意味ですが、ここでは「女性の若さ・美しさ」も暗示しています。


【うつりにけりな】
動詞「うつる」は花の色のことなので、「色あせる・衰える」というような意味です。
「な」は感動の助動詞で、「色あせ衰えて  しまったなあ」という意味になります。


【いたづらに】

「むだに」や「むなしく」という意味で形容動詞「いたづらなり」の連用形です。


【世にふる】

ここでの「世」は「世代」という意味と「男女の仲」という2重の意味が掛けてある掛詞です。
さらに「ふる」も「降る(雨が降る)」と「経る(経過する)」が掛けてあり、
「ずっと降り続く雨」と「年をとっていく私」の2重の意味が含まれています。

【ながめせしまに】


「眺め」は「物思い」という意味と「長雨」の掛詞で、
「物思いにふけっている間に」と「長雨がしている間に」という2重の意味があります。
さらに「ながめせしまに → 我が身世にふる」と上に続く倒置法になっています。



( 鑑賞 )

栄え咲き誇った桜の花も、むなしく色あせてしまったわね。
私が降り続く長雨でぼんやり時間をつぶしているうちに。
  かつては絶世の美女よ花よと謳われた私も、
みっともなく老けこんでしまったものね。
恋だの愛だの、他人との関わりのようなことに気をとられてぼんやりしているうちに。


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  非常によく知られている歌で、色あせた桜に老いた自分の姿を重ねた歌です。
かつて日本の美女を「小町」と言ったように、伝説の美女ですが、
それは年をとるにつれて衰えゆく「無常な時間に敗れゆく美」を歌い上げたからかもしれません。
  ただ単に美しいだけなら、誰の心にも残りませんものね。


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古今集の撰者だった紀貫之は、その「仮名序(かなで書かれた序文)」で、
小野小町の歌を評して「あはれなるようにて強からず。
いはばよき女の悩める所あるに似たり」と書いています。
「内省的な美女のような歌だ」といったところでしょうか。
百人一首と新古今集の撰者、藤原定家は、
この歌を「幽玄様」の歌としています。
幽玄とは、言葉で表している意味を越えて感じられる情緒、
イメージの広がり、というようなことで、
定家の父親の俊成は「和歌の最高の理念」としています。
  この歌のもつ滅びの美学、
「無常観」といったものが日本的な美学の追求にぴったり合ったのでしょうね。


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  ただ、こんなに難しく考えなくても、
「若かった頃は、私(僕)も綺麗だって言われてちやほやされてたなあ。
いつの間に年とっちゃったんだろ」
なんて誰もが考えますよね。
  能などでは、老いさらばえて死んで荒れ野でドクロとなった小野小町が、
現世に未練を残した幽霊として登場したりします。
それほどこの歌が与えた影響は大きいのですが、
要するに誰もが心に思っている
「若かった頃にやり残したことへの悔い」をこの歌が表現しているからかもしれませんね。
  年をとってくると時間の過ぎゆくのが早いですからね。
若い人も相応の方も、遅いなんてことはないですから、
今からでもやり残したことをはじめてみましょうよ、ね。