花さそふ あらしの庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり
*作者 入道前太政大臣(にゅうどうさきのだいじょうだいじん)
( 現代語訳 )
桜の花を誘って吹き散らす嵐の日の庭は、桜の花びらがまるで雪のように降っているが、
実は老いさらばえて古(ふ)りゆくのは、私自身なのだなあ。
( 言葉 )
【花さそふ】
「花」という言葉は普通「桜の花」を指します。
嵐が桜を誘って散らす、という意味です。
【嵐の庭の雪ならで】
「嵐」は山から吹き下ろす激しい風のことです。
「雪」は散る桜の花びらを雪に見立てたもの。
「なら」は断定の助動詞で、「で」は打消の接続助詞です。
全体で「嵐が吹く庭の雪ではなくて」という意味になります。
【ふりゆくものは】
「ふりゆく」は桜の花びらが「降りゆく」のと、
作者自身が「古りゆく(老いてゆく)」のとの掛詞です。
【我が身なりけり】
「なり」は断定の助動詞「なり」の連用形で、「けり」は感動を表す助動詞です。
今気がついた、と発見した気持ちを表します。
( 鑑賞 )
桜の季節を先取りするような歌ですが、新春にふさわしい美しい情景の中、
自らの老いをふと自覚する深さを兼ね備えています。
門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし
と詠んだのは、一休禅師でした。
華やかさの中に一抹の寂しさを見つけるのは、日本人の好むところかもしれません。
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春の山から吹き下ろす突風。
突風が桜と「踊ろうか」と誘って花びらがひらひらと舞い落ちる。
まるで雪のように「ふっている」けれど、
実は「古りている(年老いている)」のは私の姿なのだなあ、
としみじみと述懐する歌です。
桜の花が嵐で雪のように舞い散る場面が非常に美しく、
それを 老いとからませた対比が見事です。
枯れた味わいは、幽玄を旨とする定家の好むところでしょう。
花や嵐を人間に見立てる擬人法や、
「降る」と「古る」を掛詞にするなど、さまざまな技巧も生きています。
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この歌の作者、藤原公経は、
後鳥羽院と順徳院親子が倒幕を企てた承久の乱の計画を知ったため幽閉されます。
しかし幕府に情 報を洩らして乱を失敗に終わらせ、
その功績で太政大臣にまで昇りつめた人です。
源実朝の暗殺などがあったり、
作者の生きた時代は政治の中心が公家から武士へと変わる激動期でした。
「私も老いたものだ」と詠んだこの歌には、
どんな想いが秘められていたのでしょうか。