*作者 前大僧正慈円(さきのだいそうじょうじえん)
( 現代語訳 )
身の程もわきまえないことだが、
このつらい浮世を生きる民たちを包みこんでやろう。
この比叡の山に住みはじめた私の、墨染めの袖で。
( 言葉 )
【おほけなく】
「おほけなし」は「身分分相応だ」とか「恐れ多い」という意味です。
慈円は時の関白の息子でしたので高い身分でしたがここでは謙遜の意味で使っています。
【うき世の民】
「うき世」は「憂き世」で、「辛い世の中」を意味しています。
慈円の生きた時代は、保元・平治の乱など戦さが続いていました。
「民(たみ)」は人民のことです。
【おほふかな】
「(墨染の袖で)覆うことだよ」という意味で、この場合は作者が僧ですので、
仏の功徳によって人民を護り救済を祈ることを指しています。
「おほふ」は「袖」と縁語です。
【わがたつ杣(そま)に】
「杣」は植林した木を切り出す山「杣山(そまやま)」のことで、ここでは比叡山を指します。
「私が入り住むこの山で」という意味になります。
この句は、比叡山の根本中堂(こんぽんちゅうどう)
を建てるときに最澄(伝教大師)が詠んだ
「…我が立つ杣に冥加あらせ給へ(私が入り立つこの杣山に加護をお与えください」
という歌をふまえています。
【墨染の袖】
僧侶の着る墨染めの衣の袖の意味。
「墨染」と「住み初め(住みはじめること)」の掛詞で、
前の「おほふかな」に続く倒置法を使っています。
( 鑑賞 )
身の程知らずのことだけれど、これから比叡山に住んで、
開祖最澄(伝教大師)の意志を継ぎ、
この荒れてつらい世の中の民を仏法の墨染めの衣で包み込んで救済し、
心安らかに暮らさせてやるのだ。
それが私の使命なんだろう。
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この歌がどういう事情で詠まれたのか、
確かなことは定かではありません。
けれど「千載集」ができたのが文治4(1188)年ですので、おそらく作者が相当若い、
20代の頃に詠まれたものだろうと思われます。
若い僧侶が、伝教大師の歌を本歌としてふまえ、自らの使命感と理想を高らかに詠んだ一首。
若さにふさわしい歌といえるでしょう。
作者慈円は時の関白藤原忠通の息子で、とても位の高い人物です。
しかし慈円の生きた時代は、権力を極めた藤原氏の勢力が徐々に弱まり、
貴族そのものが衰退して新興勢力である武士の時代へと移り変わっていくその時でした。
保元・平治の乱で都が荒れ、1192年にはついに鎌倉幕府が開かれます。
激動の時代そのものでした。
そう考えると、後々この歌は深い意味を持ってきたことでしょう。
慈円は後の1220年に日本で初めて歴史を論じた史論集「愚管抄」を書き上げます。
慈円の理想はかなえられたのでしょうか。