わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね かはくまもなし(わがそでは しおひにみえぬ おきのいしの ひとこそしらね かわくまもなし)

*作者 二条院讃岐(にじょういんのさぬき)



( 現代語訳 )

私の袖は、引き潮の時でさえ海中に隠れて見えない沖の石のようだ。
他人は知らないだろうが、(涙に濡れて)乾く間もない。



( 言葉 )


【潮干に見えぬ沖の石の】

  「潮干(しほひ)」は、海の水位が一番低くなる引き潮の状態のことを言います。
「見え」は下二段動詞「見ゆ」の未然形、「ぬ」は打ち消しの助動詞「ず」の連体形です。
また、「潮干に見えぬ沖の石の」は、次の「人こそ知らね乾く間もなし」の序詞です。


【人こそ知らね】

「他人は知らないけれども」という意味です。
「人」は、取り方によっては、「恋人(相手)」とも「世間の人々」ともとれます。
「こそ」は強意の係助詞で、「ね」は上の「こそ」の結びで打ち消しの助動詞「ず」の已然形です。
「こそ〜已然形」で次に続いていくと、逆接の意味になります。


【乾く間もなし】

最初の「わが袖は」を受ける言葉です。
「も」は強意の係助詞です。



( 鑑賞 )

「濡れた袖」というのは古典ではよく使われる表現で、
とめどなく流れ落ちる涙を袖で拭うので、
「袖が濡れる」「袖が乾かない」などというように、暗喩として使われます。
私の衣の袖は、潮が引いた時にさえ海の中に沈んでいて見えない沖の石のように、
せつない恋の涙でずっと濡れていて、
人は知らないでしょうけど、乾く暇もありません。


*--------*


まあ、ちょっとオーバーな気もしますけど、
沖の石にたとえて「人は知らない密かな恋心」を語る心情には心打たれるものがあります。
この歌は、「石に寄する恋」という題で詠んだ「題詠」の歌です。
自分の心情を事物にたとえる手法で「寄物陳思(物に寄せて思ひを陳ぶる)」と言います。
ところで、和泉式部に
わが袖は 水の下なる石なれや 人に知られで かわく間もなし
という歌があります。
今回の歌は和泉式部の歌を基にした「本歌取り」なのですが、
「水の下なる石」という表現を見えない遙かな沖の石にした発想が斬新で、
そのため作者は「沖の石の讃岐」と呼ばれました。