ほととぎす 鳴きつるかたを ながむれば ただありあけの 月ぞ残れる(ほととぎす なきつるかたを ながむれば ただありあけの つきぞのこれる)

*作者 後徳大寺左大臣(ごとくだいじのさだいじん)



( 現代語訳 )


ホトトギスが鳴いた方を眺めやれば、ホトトギスの姿は見えず、
ただ明け方の月が淡く空に残っているばかりだった。



( 言葉 )


【ほととぎす】

初夏を代表する事物としてよく歌に採り上げられます。
日本には夏に飛来するため、夏の訪れを知らせる鳥として
平安時代には愛され初音(はつね=季節に初めて鳴く声)を聴くことがブームでした。


【鳴きつる方】

「つる」は完了の助動詞「つ」の連体形で、「鳴いた方角」という意味になります。
「つ」は意識的にした動作、自分がしようと思ってした動作を表す動詞に繋がり、
「ぬ」は自然な無意識の動作を表す動詞に繋がる場合がほとんどです。


【眺むれば】

「見てみれば」という意味です。
動詞「ながむ」の已然形に接続助詞「ば」がつき、順接の確定条件となります。


【ただ有明の月ぞ残れる】

「ただ」は残れるを修飾する副詞で、「有明けの月」は夜が明ける頃になっても空に残って輝いている月のことです。
「る」は存続の助動詞「り」の連体形で、強意の係助詞「ぞ」の結びとなります。
全体で「その方向にはただ夜明け前の月がぽっかり浮かんでいるだけだった」という意味になります。



( 鑑賞 )

朝まだき、ホトトギスが「テッペンカケタカ」と鳴いた。
鳴いた方をふっと見てみれば、ホトトギスはすでにそこにはおらず、
ただ夜明け方の月が空に低く輝いているだけだった。


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 「暁聞郭公(ほととぎすをあかつきにきく)」という題で呼ばれた歌です。
ホトトギスといえば3月から5月にかけて日本に渡ってくるので
「夏を告げる鳥」として有名です。そのため「時鳥」などと呼ばれて愛され、
文学的にも格調の高い景物として扱われています。
この歌のことを知るためには、平安時代の慣習について知っておいた方がいいでしょう。


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平安時代の雅を愛する貴族たちにとって、夏のはじまりに飛来するホトトギスは、
季節の訪れを象徴する鳥として、ウグイスのようにとても詩的な魅力的なものに思えたようです。
特にホトトギスの第一声(初音)を聴くのは非常に典雅なこととされました。
そこで山の鳥の中で朝一番に鳴くといわれるホトトギスの声をなんとか聴くために、
夜を明かして待つこともよく行われていたのです。
しかもホトトギスはとても動くのが速く、
こちらと思えばまたあちら、というように移動するそうです。
後徳大寺左大臣が「すわ、ホトトギスの初音だ」と振り返った瞬間、もうホトトギスはそこにはいない、
という印象もこの歌には込められているのです。


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この歌は、そういう背景を知らないとキツネにつままれたような印象を受けるかもしれません。
ホトトギスが鳴いているから振り返ったら、
そこには月が光っているだけなんて、
いったい作者は何を言おうとしたんだろうか、
と考え込んでしまいそうです。
現代に通じる恋愛歌も多い百人一首ですが、
中にはこういう平安時代ならではの背景を持つ歌があるのも一興です。
ホトトギスの声を聴くためだけに徹夜する、なんてのどかな情景ですが、
平安貴族のセンスに思いをはせるのもいいかもしれません。