さびしさに 宿をたちいでて ながむれば いづこもおなじ 秋の夕ぐれ(さびしさに やどをたちいでて ながむれば いずくもおなじ あきのゆうぐれ)

*作者 良暹法師(りょうぜんほうし)



( 現代語訳 )


あまりにも寂しさがつのるので、庵から出て辺りを見渡してみると、
どこも同じように寂しい、秋の夕暮れがひろがっていた。



( 言葉 )


【寂しさに】

平安時代の「寂しさ」は、秋や冬の寂寞とした感じを表します。
特に一人住まいや無人の荒れ果てた家や野山など、あまり人がいない場所の寂しさを示しています。
格助詞「に」は原因や理由を表し、全体で「さびしさのせいで」という意味になります。


【宿を立ち出でて】

この場合の「宿」は自分が住んでいる庵のことです。「庵を出て」という意味になります。


【眺むれば】

下二段動詞「眺む」は、単に眺めているだけではなく、
「いろいろな思いにふけりながらじっと長い間見ている」というニュアンスがあります。
「眺む」の已然形に接続助詞「ば」がつき、順接の確定条件を表します。


【いづこも同じ秋の夕暮れ】

「どこも同じように寂しい秋の夕暮れがひろがっていた」という意味です。
「同じ」は形容詞の連体形の特殊な形です。
最後の体言止めの「秋の夕暮れ」は、定家の編纂した新古今集の時代に流行した結句(むすびのことば)でした。



( 鑑賞 )

僧になって、比叡山で修行をしていたが、老いてきたので山を降り、
洛北大原に貧しい草の庵を構えて住み始めた。
しかし、修行の場とはいえ、賑やかだった比叡山と比べると、
人っ子ひとりいないこの土地での生活は寂しくてたまらない。
あまりに寂しいので、庵から出てあたりをしばらく歩き、山や野を眺めてみた。
しかし、どこも静まりかえって寂しいのは同じ。無人の野山に秋の夕暮れが訪れている。


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「秋の夕暮れ」という結びの言葉は、藤原定家が編者となった新古今和歌集の時代には、
一種の流行になっていました。新古今集の美学のひとつである幽玄の世界、
叙情的な景色を表すのにふさわしい言葉だったのでしょう。
確かに「秋の夕暮れ」という言葉だけで、詩的な寂しさをイメージすることができますよね。
「秋の夕暮れ」という結句では、百人一首では寂蓮法師の
村雨の 露もまだひぬ 真木の葉に 霧立ち上る 秋の夕暮れ
という歌がありますし、みなさんもご存じのように、寂蓮・西行・定家が作った有名な
「三夕(さんせき)の歌」もあります。
それほど数多くの名歌が詠まれるほど、「秋の夕暮れ」はブームだったということになります。


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詞花集での詞書によると、この歌は「大原にすみはじめけるころ」詠んだということです。
だから作者は、僧侶が数千人もいたとされる比叡山から、
たった一人で大原に移ってきたばかりだったのでしょう。
意を決してひとりで修行をはじめたものの、
話を交わす友達はおろか、誰も見かけない山里での暮らし。
僧侶といえども寂しさはつのるばかりです。
庵に籠もっているのもなんだから、
外へ出てみようか、と歩き回っても誰もいない。
寂寥とした山里に、夕暮れ時が迫ってきて、
しみいるようなメランコリーが心にじーんとしみわたってくる。
新古今集には、こうした枯れゆくような寂寥感を美しいとする感覚が大切にされました。
野山の緑の少ない都会に住み、
コンクリートの谷間であくせくしい時間を過ごす私たち。
疲れたときに「いっそ作者のように人のいない山里に隠遁してしまいたい」なんて思うかもしれません。
作者もそう思ったのかもしれませんね。
けれど、いざ山里に住みはじめると、そこでは人恋しさがつのってばかりだったのです。
とても秋らしい、寂しさの中にほろ苦さが混じる、枯れた味わいのある歌です。