奥山に もみぢふみわけ なく鹿の 声きくときぞ 秋はかなしき(おくやまに もみじふみわけ なくしかの こえきくときぞ あきはかなしき)

*作者 猿丸大夫(さるまるだゆう)

( 現代語訳 )

人里離れた奥山で、散り敷かれた紅葉を踏み分けながら、
雌鹿が恋しいと鳴いている雄の鹿の声を聞くときこそ、
いよいよ秋は悲しいものだと感じられる。

( 言葉 )

【奥山】


 人里離れた奥深い山のことです。  


【紅葉踏みわけ】

 散った紅葉が地面いっぱいに敷きつめられたところを、
雄の鹿が踏み分けていくこと。
この句では昔から、人が歩いているのか鹿なのかが議論されていましたが、
鹿と見るのが穏当です。  


【鳴く鹿の】

 秋には、雄の鹿が雌を求めて鳴くとされており、
そこに遠く離れた妻や恋人を恋い慕う感情を重ねています。  


【声聞くときぞ秋は悲しき】

 「ぞ」は強意の係助詞で、文末を形容詞「悲し」の連体形「悲しき」で結びます。
「は」も係助詞で、他と区別してとりたてて、というような意味になります。
ここでは「他の季節はともかく、秋は」という意味です。
全体では
「(そういう時は他にもいろいろあるけれど)鹿の鳴き声を聞くときは、とりわけ秋が悲しく感じる」
という意味です。  



( 鑑賞 )

人の住む村里から遠く離れた、人の来ない山奥に、
絢爛たる紅葉がびっしり敷きつめられたように散っている。
赤や黄色の絨毯のような情景の中から、紅葉を踏みながら鹿が現れる。
角の長い雄の鹿が、天を仰いで一声寂しく高く鳴く。
  おそらくどこへ行ったのか分からない連れ合いの雌の鹿を求めて鳴いているのであろう。
  その声を聞いていると、秋はなんて悲しい季節なのだろうと思えてくるのだよ。


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  秋になると、雄の鹿は雌を想って鳴くとされていました。
  このテーマは「万葉集」にもよく取り上げられており、
奈良の昔からの定番テーマだったようです。
  さらにこの歌は、秋を美しく彩る「紅葉」が地面いっぱいに散り拡がった情景を表現しています。
まばらな木の間をすり抜ける茶色い鹿と紅葉の赤と黄。
  こんな色彩感豊かな世界で、わびしく鳴く鹿の声を聞いて、
作者は秋の悲しさを全身に感じ取るのです。
  本来、秋は米の収穫の時期で、実り豊かな楽しい季節のはず。
農村生活からはこうした発想はあまり出てきません。
この歌は、貴族という都会生活者の感覚から生まれたものといえるでしょう。