あひみての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり(あいみての のちのこころに くらぶれば むかしはものを おもわざりけり)

*作者 権中納言敦忠(ごんちゅうなごんあつただ)



( 現代語訳 )


恋しい人とついに逢瀬を遂げてみた後の恋しい気持ちに比べたら、
昔の想いなど、無いに等しいほどのものだったのだなあ。



( 言葉 )



【逢ひ見ての】

「逢ふ」も「見る」も、男女が逢瀬を遂げたり、契りを結ぶ意味で使われる動詞です。


【のちの心】

逢瀬を遂げた後の気持ちです。
今現在の心のことですね。


【くらぶれば】

「比べると」の意味で、動詞「くらぶ」の已然形に接続助詞「ば」がついたもの。
確定の条件を表します。


【昔】

「のち」に対応する言葉で、逢瀬を遂げる前のことを表します。


【ものを思はざりけり】

「ものを思ふ」は恋のもの想いをする意味です。
「ざり」は打消の助動詞の連用形で、「けり」は詠嘆の助動詞で、
逢瀬を遂げる前の恋心なんて軽いものだということに、今はじめて気付いたという感動を表しています。



( 鑑賞 )

恋愛とは罪なもので、出会った時には両想いになりたいと思って心が動くのに、
ついに心が通って逢瀬を遂げ、一夜を共にしてみればまた激しく愛情がつのる。
彼女の一挙一動が気になる。
こんなことならいっそ逢わなければ良かったのに。
こんな感情に比べたら、逢瀬を遂げたいと思っていた以前なんて、
何も考えていなかったのと同じだ。


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激しい思慕の情を歌った歌です。
しかも、何か現代人の心を揺り動かす、共感を感じたくなる歌ですね。
時代は1000年違っても昔も今も男女の感情は同じもの。
一途な激情を感じさせる名歌が多いのも、百人一首が皆に好まれる一因かもしれません。

この歌の作者、権中納言敦忠は、
プレイボーイというより恋多きロマンチスト、といった感じの人です。
京都・西四条の女性で、やがて神宮の斎宮(いつきのみや)
となり神域へ入って出会えなくなる人に恋もしています。
逢えなくなるその日、敦忠はこんな歌を榊の枝に結び付けて女性に贈りました。

伊勢の海の 千尋の浜に拾ふとも 今は何てふ かひがあるべき

伊勢の広い浜辺で探して見ても、あえなくなった今は、何の貝(甲斐)も見つからない。むなしいだけだ。