*作者 参議等(さんぎひとし)
( 現代語訳 )
まばらに茅(ちがや)が生える、篠竹の茂る野原の「しの」ではないけれども、人に隠して忍んでいても、
想いがあふれてこぼれそうになる。どうしてあの人のことが恋しいのだろう。
( 言葉 )
【浅茅生(あさぢふ)の】
「浅茅(あさぢ)」は、まばらに生えている茅(ちがや)のことで、「生(ふ)」は「生えている場所」のことです。
【小野の】
「小」は接頭語で、言葉の調子を整えるために入れます。
「小野」 は「野原」のことです。
【篠原】
細くて背の低い竹「篠竹」の生えている原っぱのことです。
ここまでが序詞で「忍ぶれど…」に掛かります。
【忍ぶれど】
「忍(しの)ぶれ」は、上二段活用動詞「忍ぶ」の已然形で
「しのぶ」とか「がまんする」という意味です。
「ど」は逆接の接続助詞です。
【あまりてなどか】
「忍ぶ心をがまんできないで」という意味です。
「などか」は疑問の意の副詞「など」にやはり疑問の係助詞「か」がついて「どうしてなのか」という意味になります。
【人の恋しき】
「の」は「人」が主語であることを表す格助詞で、「恋しき」は形容詞「恋し」の連体形です。
「などか」の「か」を受けた係り結びになっています。
( 鑑賞 )
カヤ(ちがや)がところどころにまばらに生えている、篠竹が茂る野原。
風が吹くと、竹の葉がこすれてさらさらと音を立てる。
篠竹の「しの」ではないけれど、ひとり忍んでがまんしてきたけれど、想いがあふれてしまいそう。
どうしてあの人のことがこんなにも恋しいのだろう。
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「後撰集」の詞書(ことばがき=歌の簡単な説明)には、「人につかはしける」と書いてあります。
特定の人に詠みかけた歌のようです。
また、古今集には
浅茅生の 小野の篠原 しのぶとも 人知るらめや 言ふ人なしに
(心の中に思いをしのばせていても、あの人は知ってくれるだろうか?
いや、だめだろう。伝えてくれる人がいなければ)
という歌があり、そこから本歌取りしたのがこの歌のようです。
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この歌は恋の歌で、がまんし続けていてもあふれそうな恋の心を表現しています。
しかしこの歌のポイントは、何といってもあふれそうな恋心を「浅茅生の 小野の篠原」と組み合わせた、
イメージの豊かさにあるでしょう。
野原一面に生えている篠竹、さらにところどころに茅(ちがや)が生えている情景。
風が吹くと、衣擦れのようにさらさらと一面波打つように篠竹がゆれて音をたてそうです。
そういう美しいイメージをバックに、秘めた恋のことが歌われています。
恋はやはりロマンチックさがないと興味も半減しそうですが、こういう美しさを秘めた恋に読み込めば、
相手の女性も陶酔してしまうのではないでしょうか。
序詞は、一見ただの言葉遊びのようにも思えますが、こういう美しい情景を読み込むことで、
後の句に彩りを添える効果もあります。
平安時代の典雅さにちょっと酔いしれそうですね。