*作者 藤原興風(ふじわらのおきかぜ)
( 現代語訳 )
誰をいったい、親しい友人としようか。
(長寿で有名な)高砂の松も、昔からの友人ではないのに。
( 言葉 )
【誰をかも】
次の「せむ」に掛かる連用修飾語で「誰をまあ、いったい……だろうか」というような意味です。
「か」は疑問の係助詞で「も」は感情を込めて意味を強める係助詞です。
【しる人にせむ】
「親しい友達としよう」という意味です。
「しる人」は自分をよく分かってくれる人のことです。
「に」は動作の結果を表す格助詞で、「む」は意思を表す助動詞です。
【高砂の松】
高砂は播磨国加古郡高砂(現在の兵庫県高砂市南部)の浜辺で 松の名所です。
【むかしのともならなくに】
「昔からの友達ではないのに」という意味です。
松は感情を持たない植物だから、昔からの友人ではないというような意味を含んでいます。
「なら」は断定の助動詞「なり」の未然形で「〜である」の意味、
「な」は打消の助動詞「ず」の未然形で、「く」は「な」を体言化して、
「なく」で「…ないこと」という意味になります。
「に」は接続助詞で「…のに」の意味です。
( 鑑賞 )
超高齢化社会と言われてもう久しくなります。
いろいろと便利になった今でさえ老いてからの一人暮らしは寂しいというのに、
昔はさぞや孤独感がつのったことでしょう。
長生きは理想と言えますが、年老いるにつれて長年の友人が一人また一人といなくなっていき、
ついには一人残されてしまった老いの悲しみを詠んだ歌です。
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もう心を許せる友達は誰もいなくなってしまった。いったい誰を友達と呼べばいいんだろうか、
長寿だが心を持たない高砂の浜辺の松に心を寄せてみても、
しょせんはむなしいことなのに。
ここには一緒に語る人もなくよるべないやるせなさ、寂しさが強く感じられます。
高砂の浜辺に広がる松と浜風の潮の匂いのイメージが、いっそう寂寥感をつのらせます。
作者が孤独のあまりいつも悲嘆にくれていた、というわけではないでしょうが、
老境を迎えて淡々と日常を送るうち、親しい友人の訃報にでも接したのでしょうか。