山里は 冬ぞさびしさ まさりける 人めも草も かれぬと思へば(やまざとは ふゆぞさびしさ まさりける ひとめもくさも かれぬとおもえば)

*作者 源宗于朝臣(みなもとのむねゆきあそん)



( 現代語訳 )



山里は、ことさら冬に寂しさがつのるものだった。
人の訪れもなくなり、草木も枯れてしまうと思うから。



( 言葉 )


【山里は】

係助詞「は」は他と区別する意味があります。
都ではなく山里は、という意味になります。  


【冬ぞ寂しさ まさりける】

「ぞ」は強意の係助詞で、「季節の中で冬が一番」というような意味になります。
他の季節よりずっと、という意味です。
 「寂しさ」は「孤独だ」とか「寒々として寂しい」という意味になります。
また「まさり」は動詞「まさる」の連用形で「増す」「つのる」という意味です。
「ける」は詠嘆の助動詞で「ぞ」を受けた係り結びです。


【人目(ひとめ)も草も】

「人目」は人のことで、人も草もすべての生き物が、という意味になります。


【かれぬと思へば】

 「かれ」は「離れ」と「枯れ」の掛詞で、
人が訪問しなくなる意味の「離る」と木が枯れる「枯れ」の二重の意味があります。
「思へば」は倒置法で、最初の「山里〜」に続きます。



( 鑑賞 )

冬の寒さや心細さがしみじみ感じられる一首です。
 古今集の詞書には「冬の歌とて詠める」とあり、
今の時期にぴったりの歌と言えそうですね。
訪れてくれる人もいなくなり、草も枯れ果てて葉の落ちた木々の枝に雪が積もるような山里の冬。
都と違って人の気配が消え、
生命の様子が見えなくなった山里の寂しさがつのるのが肌で感じられるようです。


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  この歌には本歌があります。
藤原興風が是貞親王歌合の時に詠んだ一首がそれです。
秋くれば 虫とともにぞ なかれぬる 人も草葉も かれぬと思へば
「かれぬと思えば」という句に、人のいなくなる「離(か)る」
と草木が枯れる「枯る」の意味が掛詞として掛けられているのが
同じですね。本歌の方は秋になっていますが、宗于のこの歌は、
より「枯れる」というイメージが強い冬を選んでいるところに、工夫が感じられます。