*作者 大江千里(おおえのちさと)
( 現代語訳 )
月を見ると、あれこれきりもなく物事が悲しく思われる。
私一人だけに訪れた秋ではないのだけれど。
( 言葉 )
【月みれば】
「月を見ると」という意味。
「みれば」は確定条件を表します。
【ちぢにものこそ悲しけれ】
「ちぢ(千々)に」は「さまざまに」だとか「際限なく」という意味で、下の句の「一つ」と対をなす言葉です。
「もの」は「自分をとりまくさまざまな物事」ということです。
「悲しけれ」は係助詞「こそ」を結ぶ形容詞の已然形です。
【わが身一つの】
「私一人だけの」という意味で、本来なら「一人の」ですが、上の句の「千々に」と照応させるために、
「ひとつ」になっています。
【秋にはあらねど】
秋ではないけれども、という意味。上の句と下の句で倒置法が使われています。
「ね」は打消の助動詞「ず」の已然形で、「ど」は逆接の接続助詞です。
( 鑑賞 )
秋になるとだんだん気温が低くなり、日の当たる時間も短くなってきます。
このような季節は、みんなで騒ぐというより一人静かに読書をしたり思索に耽ったりするのに最適。
気候がいいので頭も冴えてきますが、
その反面、人によっては体調を崩したり、
陰鬱になりすぎたりってこともあるようです。
「秋は悲しみの季節」という思いは、
上田敏訳のヴェルレーヌの「秋の歌」が有名です。
秋の日の ヴィオロンの ためいきのみにしみて ひたぶるに うらがなし
日本では平安時代に、「秋は悲しい」という感覚が一般化したようで、
この歌はその代表的なものといえるでしょう。
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秋の名月を見ていると、いろいろな想いが去来して心がさまざまに揺れ、悲しみがあふれてくる。
秋が私一人だけに訪れたわけではないのだけれど。
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「千々に乱れる」という言葉は現在でも使いますが、
たくさんの数を表す「千」と「我が身一つの」の「一」を照応させた和歌です。
前回の文屋康秀の「むべ山風を」の歌と同じく是貞親王の歌合の時に歌われたものですので、
技法的な面白さを狙ったものでもあります。
さらにこの歌は、白楽天の「燕子楼(えんしろう)」という詩燕子楼中霜月夜 秋来只為一人長
(えんしろうちゅうそうげつのよる、あききたってただひとりの
ためにながし=燕子楼で長年一人暮らしていた、死亡した国司の愛妓が、
月の美しい秋寒の夜
「残されたわたし一人のため、こうも秋の夜は長いのか)を踏まえたものとして知られています。
作者の大江千里は、漢詩人としてもとても有名でした。
名高い漢詩の設定を和歌に移し替えて詠むのは、得意中の得意でもあったと思われます。
白楽天の詩を名歌に変えて見せた大江千里、文章博士(もんじょうはかせ)らしい、
当代きっての知識人たるところを見せたのでした。