秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ(あきのたの かりほのいおの とまをあらみ わがころもでは つゆにぬれつつ)

*作者 天智天皇(てんじてんのう)



( 現代語訳 )


秋の田圃のほとりにある仮小屋の、屋根を葺いた苫の編み目が粗いので、
私の衣の袖は露に濡れていくばかりだ。



( 言葉 )


【仮庵(かりほ)の庵(いお)】

 「かりほ」は「かりいお」がつづまったもので、農作業のための粗末な仮小屋のこと。
秋の稲の刈り入れの時期には臨時に小屋を立てて、稲がけものに荒らされないよう泊まって番をしたりしました。
「仮庵の庵」は同じ言葉を重ねて語調を整える用法です。  


【苫(とま)をあらみ】

「苫(とま)」はスゲやカヤで編んだ菰(こも=むしろ)のことです。「…(を)+形容詞の語幹+み」は原因や理由を表す言い方で、「…が(形容詞)なので」という意味を作ります。よってここの意味は「苫の編み目が粗いので」となります。  


【衣手(ころもで)】

 和歌にだけ使われる「歌語(かご)」で、衣の袖のことです。  


【ぬれつつ】

 「つつ」は反復・継続の意味の接続助詞です。
ここでは、袖が次第に濡れていくことへの思いを表現しています。

( 鑑賞 )

田圃の隅に建てた仮小屋に泊まり、獣が来ないよう番をしていると、
夜も更け、冷たい夜露が屋根からゆっくりしたたり落ちてくる。
屋根を葺いた苫(スゲ・カヤ)の目が粗くて隙間があるから、
夜露は私の袖に落ちて、着物はだんだん濡れそぼってくる。

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  農作業で泊まり番をする農民の夜を描いた一首です。農作業というと辛さを連想することも多いですが、
ここではそういう実感は少なく、
夜に静かに黙想しているような静寂さと、
晩秋の夜の透明感がより強く感じられます。
  非常に思索的な歌で、
藤原定家は静寂な余情をもっている歌だとして「幽玄体」の例としました。

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  余情、と言っても少しわかりにくいかもしれませんが、
たとえば日本でも人気のある画家、
ミレーの「晩鐘」を思い出されればいいかもしれません。
ミレーの晩鐘は、
農家の夫婦が、刈り入れの終わった麦畑で夕暮れに向き合ってたたずみ、
教会から聞こえてくる夕方の鐘の音に祈りを捧げている有名な絵です。
  晩鐘は満ち足りた仕事を描いているので、この歌の感覚とは少し異なりますが、
あのように静かで思索的な印象が、この歌にも感じられます。