*作者 順徳院(じゅんとくいん)
( 現代語訳 )
宮中の古びた軒から下がっている忍ぶ草を見ていても、
しのんでもしのびつくせないほど思い慕われてくるのは、古きよき時代のことだよ。
( 言葉 )
【百敷(ももしき)や】
「百敷(ももしき)」は「内裏」や「宮中」の意味で、「や」は詠嘆の間投助詞です。
【古き軒端(のきば)の】
宮中の古びた建物の軒の端(屋根の端のこと)を意味しています。
【しのぶにも】
「しのぶ」は「(往時を)偲ぶ=昔の栄華を懐かしく思う」という意味と、
軒からぶら下がっている「忍ぶ草=ノキシノブ」の意味を掛けた掛詞です。
ノキシノブはシダの一種で、荒れ果てた家などによく見られ、
家が荒廃するさまを表すのによく使われます。
ここでは、皇室の権威の衰退も意味しています。
【なほあまりある】
「なほ」は「やはり」を意味する副詞。
「あまりある」は「(偲んでも)ありあまりほど」、
つまり「しのんでもしのびきれない」というような意味です。
【昔なりけり】
「けり」は気づきの助動詞の終止形です。
「昔なのだなあ」という意味ですが、
この「昔」は皇室や貴族の栄えていた過去、醍醐天皇や村上天皇の在位してい
た延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)の時代を指すようです。
( 鑑賞 )
永遠に続くと思われた貴族の栄華も今は昔。かつて栄えた内裏の屋根にも
ノキシノブがぶら下がっているくらいだ。
醍醐・村上時代の栄華を偲んでも、偲びきれない思いがする遙かな遙かな昔なのだよ。
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ご存じかと思いますが、
百人一首は鎌倉時代までの貴族たちが詠んだ歌を集めたものです。
武家の詠んだ歌はなく、よってこの百人一首そのものが
貴族の栄華の時代と文化を集約したものとなっているのです。
今回の歌はその100番目。
撰者藤原定家が仕えた後鳥羽院の息子順徳院の歌です。
順徳院の生きた時代は、
新興勢力である武士が貴族の雇われ用心棒の地位から政治の中心に就き、
貴族を追いやって鎌倉幕府を開いた後でした。
栄華を誇っていた平安の王朝は既に衰退し、軒からは雑草が垂れ下がるようなありさまでした。
かつての醍醐・村上天皇の時代(9世紀末から10世紀中盤)には貴族は全盛を迎え、
「聖代」とまで呼ばれるほどでしたが、その栄華を武家から
もう一度取り戻そうと後鳥羽院・順徳院親子が謀ったのが「承久の乱」(1221年)です。
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後鳥羽院は全国の武士に「鎌倉幕府討つべし」の命を発しましたが、
集まったのは1万7千騎(西軍)。
対する幕府側(東軍)は19万騎を集めて京に攻め上ります。
東西の軍がぶつかったのは木曽川でしたが、多勢に無勢。
西軍は蹴散らされ、その後も敗戦に続く敗戦で勝負は簡単に決し、
敗北した後鳥羽院と順徳院は新潟県佐渡島へ流され、そこで一生を送ることになります。
この歌は、順徳院が20歳の時に詠んだ歌ですが、まだ承久の乱に至る前。
貴族の没落をこの帝が深く悲しんでいたことが伺えます。
貴族の没落は、長く続いた貴族の文化の終焉も意味しました。
貴族文化の象徴たる和歌の集成、百人一首の最後に定家が
この歌をもってきたのはとても深い意味が感じられます。
貴族文化とともに生きた定家もまた、同じ思いだったのでしょう。