加納天満宮について

 加納天満宮は、1445年に創建された。当時は斎藤利永が沓井城の守護神であった。しかし、沓井城が廃城となったあとも、守護神であった天満宮は地元の人々によって祀られ続けたという。
 1601年、奥平伸昌が加納城を築城した際に、現在の位置に移転した。
 1868年、天満神社に改称されるが、1891年に濃尾地震の被害を受け、旧山車が崩壊する。1902年に一千年回祭に合わせて新調された山車にはからくりが設置されている。
 1945年に戦争で山車が維持できないと、天満宮に保管を申し出て境内に倉を立てて保管するも、同年7月9日の岐阜空襲によって、8台が消失、残った鞍馬車は後に岐阜市の有形文化財に指定された。

 前記のとおり、天満宮には菅原道真が祀られている。道真が生前優れた学者、歌人であったことから『学問の神』として信仰されている。そのため、受験生が合格祈願していく姿が多くみられる。

 平安時代、菅原道真という政治家がいました。彼は藤原家などの有力な貴族が道真の財政に反発し、また、現在の家格に応じたそれなりの生活を求める中下級貴族もこれに同調したため、簒奪(君主の継承の資格がない者がその地位を奪取すること)を謀ったと罪を着せられ、太宰(現在の福岡県西部)に大宰権帥として左遷されました。道真は京を去る時に

東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ

という和歌を詠んでいきました。
 結局、道真はその地で没し、梅の花を拝むことは叶いませんでした。
 しかし、道真の死後、朝廷では異変が相次いで起こります。疫病が流行り、日照りが続き、また醍醐天皇のさらには朝議中の清涼殿が落雷を受け、多くの死傷者が出た上、これを目撃した醍醐天皇も体調を崩して、3か月後に崩御してしまいます。
 これらを道真の祟りだと考えた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行いました。このときに全国各地に建てられたのが天満宮です。

(Wikipediaより)

△加納天満宮の本殿。

△菅原道真公。

天満宮の歴史

天満宮とは