岐阜城復興天守(明治)
明治時代になると西洋文化の流入によって、登山・ハイキングが流行するようになると、市民の間で金華山の整備を求める声が高まってきた。
そんな声を受けて整備の一環として明治43年、岐阜城に天守が建てられた。
この天守を建てたのは当時の岐阜保勝会と岐阜建築業組合。
保勝会とは今で言う観光協会で、市長が会長だった。
建材は、濃尾震災によって長良川の橋の廃材が大量に出たのでそれをそのまま貰い受けた。